憲法改正の是非を問う国民投票へ向けて 1

波乱と予定調和に満ちた参議院選挙が幕を下ろした。
法という凶器を駆使し、数多くの国民を追い詰めた元首相が亡くなり、参議院では日本国憲法改正を謳う勢力が席巻している。

早ければ2022年10月に、日本国憲法改正の是非を問う国民投票が行われるのではないか?と多くの方が注目されていることだろう。

翻って、憲法改正の是非を判断するためには、日本国の過去を知らなければならない。
昨今の恣意的な学校教育では、国の根幹である憲法についてしっかりと学ばないので、事の重大さの認識が全く足りていないように感じる。

過去記事でも述べたが、憲法とは国家の指針である。
yurarihyon.hatenadiary.jp


さて、吾等が日本国は過去にどういった憲法を掲げてきたのだろうか?
次の引用は、聖徳太子が制定したとされる十七条憲法の現代語訳である。
intojapanwaraku.com

今回の参議院改選で1議席を獲得した参政党は、こういった歴史を振り返り、自分たちのルーツを理解しようと呼びかけていた。
私は参政党を支持しないが、こういった活動は是非とも拡げてほしいものである。

して、改めて見返してみたが、誠にぐうの音も出ぬほど真に迫った条文であると思う。
当時は仏教を国教として進めるという方針であったがために、仏法を解く一面があるが、よくよく訳文を読んでみれば、今の日本国憲法と大差ない、もしくはそれ以上の内容になっていると感じる。

第一条の 和を貴しと為す は、耳にしたことがるはずである。
その他、感銘を受けた条文を紹介できればと思ったのだが、上の引用を読み返してもらうが適当であると思う。

十七条憲法を読み返し驚愕したことは、この憲法は公に対し制定し戒めていることと、聖人君子を官とすると明記していることだろう。
前者は現日本国憲法と共通しているものであるし、後者にいたっては官(公務員)は聖人君子(人格者)でなければ務まらぬという事だ。

権力者の腐敗はいついかなる時も存在し、戒めなければ民が悲惨な目に合う。これは日本の歴史として経験したことである。
大日本帝国憲法はまさしく、国家の主権を恣意的に持ちうることが可能な憲法であった。
功罪ともにあるのだろうが、産み落としたものが悲劇であった以上、後の評価としては悪法と言わざるを得ないだろう。

権力を持てば手放し難くなる。一つ所に流れがとどまれば淀みが起こるように、国政や大企業の執政に関わる官では、恣意的に権力の分散を防ぐような人事が多くなる。官僚の天下りなど最たる例であろう。
自浄作用が追い付かなくなれば、行きつくところは多くの民の死であることは共通している。
だからこそ、官(公務員)は公に仕える君子であれと説かれるのだ。
間違ってもサラリーマン気分で務めるようなものではない。

昨今、政治屋の腐敗は止まることを知らず、国民を銀行のように扱い税(贅)をむしり取っていく。
これを変革するには、教育を変革する必要があるが、教師の育成は非常に時間がかかる。
ならばどうするか?

私たち一人一人が、今この瞬間から教師となっていくしかない。
何を教える必要もなく、十七条憲法の内容を履行すべく、自らを省みて生きることが、何よりの教育となっていくのではないだろうか?
聖人君子に至る道筋は、十七条憲法にすでに明記されているのだから。