香港のデモについて思うこと

これから述べることはあくまで私の私見である。
香港でおこっているデモで、犠牲者が出ている。正しさなんてものはないと思うが、時の政権や多数派などの同調圧力によって、世論が左右されているのが現状だろう。

個人的には共産主義は嫌いである。隣人を貶める密告制度も、思想の押し付けも迷惑甚だしい。理想論になるが、共同体は所属員の意欲によって一体感を得るものであり、制約によって成り立つものではないだろう。共産主義だろうが民主主義だろうが、法は時の政権(国家)にとってこそ、都合の良い物である。うがった見方になるかもしれないが、福利厚生も救済することによる国家への影響を考えると、無償でのもでは決してない。完全に白か黒かではなく、白に近いグレーか、黒に近いグレーかの違いでしかない。教育という制度を通して人材を育成する。わざと過激な言い方をすれば、教育という制度を利用して洗脳する。である。

私の考えや思想も植え付けられたものであることは否定できない。だが、犠牲になった学生を思うと胸が痛い。
無理な押し付けが生む軋轢は、人類史に置いて人が人を虐げてきた歴史そのものだ。宗教戦争もしかりである。
必要なのは選ぶ自由ではないだろうか?

共産主義も民主主義も宗教思想も選びとるもので、押し付けられるものであってはならない。実際には実現が難しいこともあるが、少なくとも住む場所を変えることで選ぶことができる環境は必要だろうと思う。それすらも認められない。というのならば国家という体裁を持ったテロ組織と変わらない。気分で法が制定され罰を課せられる。解釈まで気分次第では法の意味がないだろう。

日本は教育制度という点においては非常に遅れているのだろう。だが、制度が進んでいるからと言って、中身が問われないわけではない。日本の教育の中身がいいという訳ではないが、少なくとも災害時などでは、暴動も略奪も驚くほど少ない。政府の対応が遅れても、文句が出るだけである。温室育ち何て言われるが、時と場合による。主張が少ないだけのように思うのだ。されるがままを肯定するわけではないが、妥協は必要だろう。

しかし、妥協してはいけないところはいけないのだ。香港で起こっている活動が実を結んでほしいと願っている。単なる犠牲では浮かばれない。願いへの礎となる事を祈っている。